青と茶色の喝采を。

感じたことをパッキリと並べます

『トマトイープのリコピン』

中学生の頃、月曜日を迎えるのが楽しみだった。早くこないだの続きが読みたくて、部活動に行く前の僅かな時間を利用して、コンビニにジャンプを買いに行くのが習慣だった。今思うと5時おきで、コンビニ行って、ジャンプだけ買って帰ってくるなんて、なんて馬鹿げているんだと思わんでもない。でもあの頃はそれほどに熱中していたのだ。

 

最近おもしろい漫画がジャンプで始まった。

『トマトイープリコピン

いぬまるだしっ」で有名な大石浩二の新連載。いぬまるだしっの方と、比べるとシモネタが少なく、旬の時事ネタが多い。どちらかというと、こっちのほうが僕の好み。

この作品の面白みを一言で表すのならギャップ。舞台はキュートぴあ。まあ簡単にいっってしまえばサ〇リオの世界観。絵だけから判断したらよくあるファンタジー。みんな仲良く暮らしましょう、みたいな感じの場所。でもそんな誰も傷つかない優しい世界で起こっているのは、現実の僕達の世界で度々生じる「しょーもない」こと。インスタ女子の自撮り付き「はあ、どうして私って可愛くないんだろう…」Tweetから、果まで森○学園問題までネタの幅が広い。そんな俗世に塗れなくったことを、サン○オに出てくるようなキャラがやるから、凄い面白い。

この作品にはサ○リオを彷彿とさせる可愛らしいキャラクターが登場する。しかし大石が書くキャラだ。もちろん癖がある。そんな丸くも尖っているキャラから飛び出す、ジョークがなんだか心地よい。なんでそんな気分になるか。ギャグを理解するためのほんのすこしの知識を要求されるからだろう。この作品に出てくる面白さをわかるためには、旬の時事問題にちょいと触れておく必要がある。で、繰り出されるギャクの意味がわかった時「ああ、これ知ってる」となる感覚が心地よいのだ。

またこの作品、非常に読みやすい。テンポがいいのだ。

毎ページに笑える箇所が存在し、常に飽きずにみることができる。ギャグマンガだが情報量は銀魂スケットダンスと比べて少ないことも読みやすさにつながっている。

 

久々に読み続けたいと思う漫画だった。

文がうまくなりたい。

 

文章が書けるのは、自分の思考を丁寧に追うことができるということである。僕はグチャグチャとした考えをまとめられる人になりたい。

かっこよくなくていい。

やさしくなくていい。

愛想がよく、人付き合いがいい人間でなくていい。

だけど僕のことがわかる僕にはなりたい。

人は考えていると思っていても、でもその実、ぼんやりしたイメージしか思い浮かべてない時がある。むしろ多い。

きちんとした思考をするには、やはり言葉は重要である。物事を思慮するには因果関係やつながりを意識しないといけない。そのとき人はあやふやな感じではなく、はっきりとした文脈を意識する。つながりを考えるということは、言葉を考えるということ。言葉が出てこないと、相手にもそして自分ですら、何を考えているのかを示すことはできない。言葉がないと人は思考できないのである。

「口紅に残像を」感想

今年は忙しいかった。

 

講義に、新しく始めた売店のアルバイト。演劇サークルの活動。色々なものに追われてるせいで何時しか、活字に触れる機会が亡くなってしまっているな、と焦り本屋を散策。

 

元々は前から読みたかった筒井康隆の「笑うな」

を目当てに行ったのだが、すぐ横に陳列されていた本書のpopにある「文学的実験小説」の謳い文句に引かれ2冊とも購入。

 

「口紅に残像を」は筒井康隆の実験小説。

 

物語の序盤、主人公の佐治勝夫と彼の長年の親友津田得治の会話から話は始まる。

しかし言語の喪失に関してはそれ以前1ページ目から始まっている。

 

この小説の特徴は、使われていく言葉が章を進む事に、ひとつまたひとつと消えていくことである。

 

例えば「あ」という音が消えたなら、それと同時に「あ」を使った言葉、その物自体も世界から完全に消失する。

 

 

『世界から「あ」と「ぱ」『せ』』を引けば

 

こんな感じの文言と上半分に書かれたおちゃめなイラストから毎章始まる。

 

この作品が面白いのは、そのなくなったものに対しての登場人物たちのリアクション。そして佐治を含め自分たちを虚構内存在として、認識してるところだ。

 

自分たちを虚構内の存在として見ている視点というのは僕達、読者と同じような視点を持つということである。

 

「ふ」が消えたことにより佐治の娘、文子が突然消えるシーンがある。

 

「じゃ、これは」妻も蒼白だ。「現実ではないのですね」

「すなまい。お前たちにとってこれは虚構なのだろうが、実は俺にとっては現実なんだよ」

勝夫のその言葉を聞いた以上、妻とひとり娘はもとから三人しかしかいなかったことにして食事を続けなければならない。

 

 

違和感はあるのだ。スプーンも、フォークも置いたまま、さっきまで誰かと話していたと身体的な記憶、感覚としてはおかしいと誰もが感じている。でも誰がいたのか頭にはモヤがかかり出てこない。

この虚構内世界での作者佐治にさえ、ぼんやりとしてわからない。

 

しかし序盤で作られたこの小説のルールは絶対であるから誰もが従うざるを得ない。

 

次の描写では既に娘と妻は嬉嬉としてワインや料理に舌鼓を打っている。だがどうしてもそれは不自然さを伴っている。

 

ここに僕はどこか演劇的な雰囲気を感じた。

物語のパーツとしての人物たち。作者が与えた役割に疑問を感じながらもそれに従うより他にアクションができない。

役者としての定められた役割と、実際に演じる時のその人自身の心情の乖離に似たものを感じてしまうのです。